意味のない日

久しぶりに朝早く起きた休日。今日は外に出掛けようと、昨日の朝から決めていた。休日に外出するということですら、前もって決心して自分に義務として課さなければならない。


古書即売展。好きな楚人冠が何冊が出ていた。全集端本も見つかった。
上林暁の妹 徳廣睦子『兄の左手』(筑摩書房1872初版、カバ帯)が100円で買えた。
他に古書店を何点か回り、さらに数冊購入。


上林暁は、主に私小説を書く作家で、昭和14年に妻が脳を患い小金井の聖ヨハネ病院に入院、昭和21年に妻を亡くす。その間、妻の病態や関わりを作品にし亡妻物も多い。
急に居なくなるのも辛いけれど、徐々にやせ細り力を失っていく大切な人を見なければいけないのも辛い。それでも、覚悟が出来る分、また居なくなる前に言葉をかけ、また掛けられる分、急に居なくなるよりは良いように思う。ただ、それは私が急に居なくなられた立場だからそう思うだけだとは思う。逆の立場なら、徐々に弱る姿を見るよりは急に居なくなる方が良いと思うのだろうか。ただ、どちらにしろ先立たれるのは辛い。
上林は昭和37年に脳溢血で倒れ、昭和55年に亡くなるまで半身不随となる。そこで物が書けない兄の代わりに、その小説や随筆の口述を筆記したのが妹 徳廣睦子。その妹が兄の死後に書いたのが『兄の左手』。結婚もせず、兄の介護に明け暮れた生活。それも辛いと思う。



よく 100年後にはいま生きている人間は全て居なくなってしまう というような言葉を聞く。そう大きく考えると、貴女の不在と私の不在の間はホンの十数年のずれでしかないのかな、と思う。その十数年が何より辛いから、こうやって悲しんでいるわけなんだけれど。
時間だけが無駄にあると、無意味な、とりとめもない面白みも新鮮みもないわけのわからないことを延々と考えてしまう。
能力のない人間に時間を与えると碌なことにならない。



買い物の後、喫茶店に寄る。
そこに老人四人組が仲良く卓を囲んで色々と話していた。老婦人が一人、男性が三人。その内だんだんと様子が変わってきた。
一人の男性が 今日は用事があってこっちの方へ来た と言うと、老婦人が 離婚届?離婚届ですか? と少々不自由な発語で何度も聞いていた。何を言っても 離婚届ですか? と繰り返していた。完全に無視されていた。
またしばらく話していると、その中の男性の一人が急に大声で うるさい!もう帰る! と激昂して立ち上がり憤懣やる方ない様子で店を出て行った。それでも残された人達は何事もなかったように話し続ける。
やがてもう一人の男性も帰り、残ったのは老人一人、老婦人一人。老人は老婦人を ちゃん付け で呼びかけ また会いたいですね、また会いましょう と声を掛け去って行き最後に残されたのは老婦人。


山場も落ちも全くない話なんだけれど、老人たちも元気なぁ、と。こんなに年をとっても元気でいられる現在だと言うのに、貴女は若くして元気そのものを捨ててしまった。



なんだか変な気分の日で、ただただ文字を連ねている。
自分で見直しても意味のないことをつらつらと書き連ねている。
こんな風に意味のない一日だった。